罰ゲームは「自分史ブログ」5投稿・・

 |  |  | 0

ラグレスでは、年初めに会社と個人の年間目標を決めます。面白いところは、目標達成の暁には、好きな賞品を頂ける。その代わりに未達の場合は、罰ゲームが決められる。未達の私は自分史ブログ5記事の投稿をする羽目に・・。目に止まってしまった方々には、お役に立てない記事ですが、悪しからず・・。

 

1.年間目標設定はモチベーションUP!

 

 

年初めに会社と個人の年間目標を決めます。面白いところは、目標達成の暁には、好きな賞品を頂ける。その代わりに未達の場合は、罰ゲームが決められる。

 

 

 

 

 

罰ゲームの内容も、希望賞品に見合った罰を代表が考える。面白いモチベーションUP方法。

 

 

 

 

大手企業の社員育成に「自分史」が活用されていることもあるということで、自分の成長になればと、振り返ってみます。

 

 

 

 

 

2.自分史ブログ始まり・・ 第1章

 

 

振り返ろう・・記憶をよみがえれ・・。

 

 

 

 

生まれも育ちも大阪! 大阪のおばさんの自己紹介から・・。

 

 

 

1.両親 3人姉弟 (私は1番上)

 

2.幼少期は暴れん坊将軍?

 

3.12歳で、発病入院 暴れん坊は強制的に抑えられる?

 

4.高校時代は共働き放任の家庭で自由に活動

 

5.高卒と同時に結婚・出産

 

 

 

 1.働き者の両親に感謝!気付いたのは亡くなってから・・

 

 

まずは両親を少し紹介します。

 

 

 

 

記憶にある限りですが、父は家庭環境に恵まれず、5歳の時に母親を亡くし、そこからは親戚の家で、お姉さんと共に育てて頂いたようです。

 

 

 

 

父の父親(おじいさん)は、仕事に忙しく親戚の家では、かなりいじめられていたようで、実子との差別が酷く、土間のようなところで腐りかけのご飯を食べさせられていた・・という話を聞いた記憶があります。

 

 

 

 

自分の子供達には、同じ思いをさせたくないという気持ちで、学歴のない父は肉体労働で、孤独な長距離トラックの運転手をしていたようです。

 

 

 

 

長距離ということで、九州・関東メインに運送していましたので、学校が休みの時には家族でついて行き、帰りに観光を兼ねて遊びに連れて行ってもらっていたことを思い出します。

 

 

 

「トラック野郎」の映画を見に連れてもらったり、デコトラがカッコよく見え、自宅前でオイル交換等をしているのを見ていた私は、大人になったらトラックの運転手になりたいと思っていました。

 

 

 

 

そんな父親は、51歳という若さで、癌になり亡くなってしまいました。

 

 

 

 

積荷の鉄製扉が雪崩落ちてきて、足を骨折しながらも、まだ治っていないのに、仕事に出かける強い父でしたが、流石に病気には勝てなかったですね。

 

 

 

 

母はというと、またこの方も父親が稼ぐなら私も・・位、頑張り屋で営業の仕事をしていましたね。

 

 

 

母の帰りが遅くなる時には、小学生の私は夕方5時になったら8歳違いの弟の保育園のお迎え、お米を洗って仕掛けておくのが、頼まれごとだったのを思い出します。

 

 

 

 

その母も、10年間ほど寝込んで亡くなっています。

 

 

 

 

弟と同居の母でしたが、病院関係・介護関係は私の役割で、介護の大変さを知る良いお勉強になりました。

 

 

 

 

 

 2.幼少期は暴れん坊将軍?

 

 

父の言葉は、生まれた瞬間「なんや〜女か〜」だったそうです。

 

 

 

 

いつも母に聞かされていた話ですが、女子で生まれてきたにも関わらず、父は男子が欲しかったようで、私はかなり鍛えられていたそうです。

 

 

 

 

父は私を見るとプロレス技を仕掛け、強くたくましく育ててくれていたことは、よく覚えています。

 

 

 

 

 

高いところから、飛び降りるのが好きで、よく顔に怪我をする私を見て、母親は心配のあまり姓名判断か何かで、「お嫁に行けなくなる名前の画数」とかで呼び名を変える程でした。

 

 

 

 

そこから、名前が2つある私は、使い分けが理解出来ずに困る時期もありました。

 

 

 

 

そんなこんなで、2人の弟たちとはプロレス仲間?姉弟喧嘩は毎日のようにモノが飛び交う様。

 

 

 

 

常に、戦う姉弟!

 

 

 

 

時には扇風機が吹っ飛び壊れ、時には工作中のカッターが振りかざされ、それを見た母は、布団たたきを持ち、私達姉弟を追いかける・・という、凄まじい家族でしたね。

 

 

 

 

けれど、楽しかったですね。

 

 

 

 

男勝りの女子でしたので、幼少期は男子と遊ぶことが多く、負けず嫌いはその頃に形成されてしまったのでしょうか・・。

 

 

 

 

 3.12歳で、発病入院 暴れん坊は強制的に抑えられる?

 

 

12歳の頃、動悸が激しくなり、少し動くとハアハア。

 

 

 

 

その頃は、毎日夕方になると、近所でソフトボールの練習をしていた。

 

 

 

 

いつものように走っているのですが、監督に「ちゃんと走れ!」と怒られる。

 

 

 

ベース間を走るのに、一生懸命走っていないように見えたらしく「もう一回、他の子と一緒に競争してみろ」と言われ、いつも余裕で勝てる子にギリギリだったのを覚えています。

 

 

 

 

何かおかしいと病院に検査に行ったところ、「甲状腺機能亢進症」と診断される。

 

 

 

 

即入院!

 

 

 

 

その時代は、今ほど医療も進んでいなかったので、3ヶ月も入院することになりました。

 

 

 

 

小児病棟でしたが、何人かの子供達が亡くなり、お母様方が廊下で泣いているのを見ましたね。

 

 

 

 

昨日まで、遊んでいた子が個室に隔離され、酸素ボンベが部屋の前に並ぶ・・すると数日後には、亡くなってしまう。

 

 

 

 

子供心に、「人間ってなんでこんなに不公平なんだろう?」と思ったことがありました。

 

 

 

 

3ヶ月の入院期間の間にも、元気だったら知れない経験をさせて頂いたように思います。

 

 

 

 

 

そこからは、退院しても「運動一切禁止!!」 暴れん坊撃退!!

 

 

 

 

そして、人前で走るのが嫌いになっていました。

 

 

 

 

 4.中・高時代は共働き放任の家庭で自由に活動

 

中・高校時代は、両親が共働きのため自由に活動していた事を思い出します。

 

 

 

 

中学生はクラブ(音楽系)で、楽しく過ごす。運動部は諦める( ; ; )

 

 

 

 

 

高校は、勉強が嫌いだった為、商業高校に進学。

 

 

 

 

 

1年生の頃は、卒業に必須の簿記3級だけは最初の試験で取得。後は自由です。長期休みには、毎日アルバイト。

 

 

 

 

3年生の頃には、平日毎日アルバイト。

 

 

 

 

親に頼らず自由にするためには、お金を稼がなくては・・とアルバイトに励む。

 

 

 

 

16歳で原付免許を取得。原付バイク購入して楽しむ。

 

 

 

 

18歳になると、学校に行きながら、普通自動車免許取得に教習所に通い頑張る。

 

 

 

 

親には、すべて事後報告。

 

 

 

 

 

資金を親に頼らなければ、親は何も言えない。そんな時代でもありました。

 

 

 

 

流石に、バイト帰りの門限22時は守っていましたよ。

 

 

 

 

そうして、とりあえず高校を卒業しました。

 

 

 

 

 5.高卒と同時に結婚・出産

 

高校を卒業すると、通常は就職するのですが、1年以上アルバイトをしていたのが小さな飲食店だったので、学生時代は毎日17時〜21時の時間帯でした。

 

 

 

 

卒業後は「そのまま、日中に働いて!」という事で、就職活動はせず、アルバイト先で昼の時間帯に変更し、働らくことになりました。

 

 

 

 

そして、その頃1年以上お付き合いをしていた男性と結婚・出産ということになります。

 

 

 

 

まあ、出来ちゃった・・なのですが。

 

 

 

 

19歳で、お母さんになってしまいました。

 

 

 

 

続きは、第2章で・・。

 

 

 

 

お付き合い ありがとうございました。

 

 

 

大阪で看板製作・施工は看板屋 ㈱ラグレスまで・・他府県でも対応可能です。

 

まずは、御見積り・お問い合わせからでもお気軽に・・・・・