目標未達の罰ゲーム。「自分史ブログ」2章目は結婚から出産・子育ての時期です。幼少期の子供達を思い出し、記録に残します。
1.高校卒業後、まもなく結婚することに・・
高校を卒業後は、高校時代のアルバイト先「飲食店(喫茶)」で働くことにしました。
アルバイト時代は友達も学生なので、同じ時間帯が「暇」な時間帯。
仲の良い友達は、毎日バイト先の飲食店にお客さんとして、来てくれていました。
当時はゲーム機がお店の奥に、テーブル代わりに置いていたので、そのゲーム席は友達の特等席のようになっていました。
私が、バイトに入る時間帯には、遊びに来てくれていましたので、私は仕事をしながらも友達とおしゃべりしながら・・と、楽しくアルバイトをしていましたね。
友達が就職後は、時間帯が変わってしまったので、お客さんとしては来れなくなってしまった方達もいましたね。
友達は、日により違うメンバーが来てくれていて、近くにある寮住まいの大学生の方達も通ってくれるお店でしたので、仕事をしながら、おしゃべりしながら・・接客?。
忙しくなると、そんなことは言ってられませんので、厨房の中に入る事もありました。
家族で経営しているお店でしたので、「一緒にご飯食べて行く?」と、誘って頂いていた事も思い出します。
結婚することになった旦那さんも、そのお店で知り合った感じでしたので、お腹に赤ちゃんが出来た時には、仕事を辞めなくてはならない理由も、お店の方には、直ぐに理解して頂けました。
結婚式は、とりあえず親族だけで行うことにしました。
2.出産まで キツかった「つわり」
私は、特殊なの?と思う程に、妊娠してからの「つわり」が、酷かったな・・。
妊娠間も無い時期の、2ヶ月に入る頃には、何をしていても気分が悪く少し動くと嘔吐する。
何かを食べても、食べなくても、吐く・吐く・吐く。
外出も出来ない程でしたね。カバンの中にはいつもビニール袋を用意していました。
食べれなくても吐くので、出る物がなく「黄色い胃液」を吐いているのを見ている、周りの家族は、心配してくれていたのも、思い出します。
妊娠7ヶ月の時期になると、少し頻度が減ってきましたので、楽になっていました。
出産時も、吐きながら・・といった、感じでした。
なので、一般の方々は、陣痛が痛くて苦痛という話をしますが、私の場合は出産時の痛さは、あまり記憶になく、「つわり」の苦痛だけが記憶に残っています。
3.第一子は「男子」誕生!
私の父とは逆で、私は女子が欲しかったので、ピンク色のおむつや肌着を用意してしまっていましたね。
長男には、申し訳けなかったですが・・。
元気に生まれてきたのは「男子」でしたので、父の教えのように「強く・たくましく」育って欲しい..という思いで、変な鍛え方をしてしまっていましたね。
「力づく」は間違っていると気付いたのは、丁度就学前。
6歳の息子を前に座らせて、懺悔をしました。「今まで、ごめんね・・」と説明をしましたね。
けれど、息子にすれば、何のことやらわからなかったことでしょう。
怒ることのない、賢く優しい男子でしたね。
保育園でも学校でも、先生方からは、いつも褒められる自慢の息子でした。
4.第2子は念願の女子誕生
息子が5歳になった頃、自分時間が持てる時期になりましたが、男子の「一人っ子」は、よくないかな?・・と思い、2人目を作ろうと決める。
19歳で、子供を授かった私は、青春時代と言えば高校時代だけ・・。
バイトはしていたけれど、それほど遊びに行った記憶が無い。
友達が、楽しんでいる期間も子育て。
遊びに来てくれる友達も、私は子連れなので行けるところが限られてくる。
まだまだ、親としての私は未熟でしたが、二人目の子育てに入ることを決めた頃でした。
6歳違いの女子出産。
女子でしたので、嬉しかったですね。体重3500gもある「BIG BABY」でした。
女子でしたが、私に似ていたのか、ピンクの洋服を着せているのに、見知らぬ方は顔を見ると「男の子ですか?」と聞かれることが多かった女子でした。
私の母も、赤ちゃんなのでわからないことをいいことに、ジ〜っと顔を見ては「不細工やね〜」と言っていましたね。
5.第3子も女子で良かった・・
それから、また5年の月日が過ぎた頃、3人目の子を身籠りました。
長男とは、ひと回り違い。12歳違いの女子が誕生です。
3人の子を持つ親になるとは、思ってもいませんでしたし、子供は好きでは無かったのですが、我が子は別物やはり可愛いですね。
女子でしたし、12歳違いの長男は、しっかりお手伝いもしてくれる良い子でした。
3人共に「つわり」のひどい妊婦さんでしたので、長男は学校と隣接している保育園に通っている長女を保育園に送り、そのまま学校に登校してくれるお兄ちゃんでした。
長男が卒園した保育園に通っていた長女でしたので、先生方も長男共に優しく大切接し、協力して下さっていたと思います。
旦那さんが、朝5時には出かけるお仕事でしたので、動けない私の代わりに長女の朝の準備を手伝い、送り出してくれる立派なお兄ちゃんでした。
3人の子を育てる母としては、6歳違いの兄妹でしたので、子育てにそれほどアタフタしたことがなく、旦那さんも協力的で、子供達の幼少期の苦労は、記憶には無いですね。
元気に外遊びの好きな子供達でしたが、仲良く喧嘩も殆ど無かったような記憶です。
アウトドアが好きで、次女が3歳になる頃には、毎週日曜日になると、蛍を見に行ったり.カブトムシやクワガタ取りに、お弁当を持って出かける家族でした。
夏には、キャンプ場ではない山奥の上流で、川遊びをしながらキャンプ三昧だった頃が楽しかった良い思い出です。
そして、年に1度の旦那さんの実家宮崎に車で帰省するのが楽しみで、大阪では体験出来ない、畑にはスイカがゴロゴロ、野菜は取り放題。
5月頃に帰ると、いちごや筍堀が自由にできる環境。
大阪育ちの私には、さらに野生的で良い経験をさせてもらっていました。
子供達も、宮崎に帰省するのを楽しみにしていたようです。
懐かしいですね。
おじいさんも、おばあさんも今は亡くなってしまいました。
私たちが帰るのを楽しみに待っていてくれた、義父・義母でした。
子供が小さくてお金のいる時期なのに、旅費を掛けて帰ってきてくれてありがとう。という言葉と同時に、旅費の分をお小遣いと言って頂いた事もありました。
良い両親でした。感謝ですね。
子供は、女子なら一人で良い!と思っていた私ですが、今では3人産んで良かったな〜と思っています。
この頃は、平和な時期でした。
次回 波瀾万丈 家族崩壊危機 第3章
お付き合い ありがとうございました。
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